From Editor/編集雑感


  • You Are Just Wonderful ! を終えて

     昨夜、江戸時代を背景にした時代小説を読んでいた。飢饉を題材にしたフィクションであったが、凶年の連続によって藁まで食物としなければならなくなる厳しさには驚愕した。  山間の寒村にて、骨身惜しまず働き続けたひとりの女性が、幼子を餓死にて亡くし正気を失っていく過程に、言葉にならない衝撃をおぼえた。そのような状況下においても、寺では施食がなされている。餓えて流民とならねばならない農民と、施食する米をも持っている寺との格差を思った。

     私は、闇とは形容しがたい都会の窓辺に視線を向けた。そうはいっても夜の帳は、過ぎ去った私の個人的な一日を閉ざすのには十分だった。私は横たわり目を閉じて考えた。この地球上には、無数の個別の国家という枠組が存在している。そして私の想像をはるかに超える数の大地で、今も人は餓えている。そのことを考えてみたところで私に何が出来るというのか・・・ほどなくして私は眠りに落ちていった。

     夢のなかで私はしあわせであった。私らしき人物はどこにも存在しない夢のなかの景色を確かに私が見ていた。山の渓流が見えていたが音は感じられなかった。落葉で埋め尽くされた渓流添いの岩場を私の視線が追っていくとサワグルミの木が見えた。誰かの言葉によって空を見上げるけれど上方に空は見えなかった。

     今朝、私は時計の音で目覚めキッチンに立った。深夜に帰宅した夫の使った皿やグラスが流しに雑然と置かれているのが目に止まった。なぜか私はアランフェス協奏曲を聴きたかった。そのアダ−ジョの調べが流れてきたとき、白日の日常は遠くへ去っていくように思われた。  私は緩やかな広がりをもつ一面の枯野を見ていた。実際には、私の目の前にあるのはキッチンのブル−のタイルであったが、枯野は黄金色の輝きを放ちながら、その穂先は触れた指を裁断しそうな鋭さをもって風に揺れていた。曲がアレグロに変わると夢が終るように枯野は消滅していた。やがて静かに音は過ぎ去り、私は空腹を満たし家を出た。

     明日から個展です。

    ( 2000.11.12 川村法子 )



  • You Are Just Wonderful ! <2> When Love Grew ! に寄せて

     IXY−DIGITALを、6月の梅雨空が続く頃に2週間の予定でお借りした。
     美しいデザインに魅了されて、雨の日には窓越しに風景を写したり、ベランダの軒下から空を仰いだり、遠雷がしだいに近づいてくるのに怯えながら屋上から街の断片を見つめたりして過ごしていた。
     少しでも晴れると、仕事も手につかなくて、コ−ヒ−を買いにいくふりをして外へ飛び出してしまった。
     都心のスモッグで濁った空とはいうものの、そこにあるのは紛れもない夏の青空だった。
     流れゆく雲は自由な変転を繰り返し、決して私を退屈させることがなかったので、時間の許す限り雲を追い続けた。時折、ビルの狭間にあった空が、驚くほど開ける瞬間があって、私は立止まり空を見上げて飽きることがなかった。

     公共の建物のなかでも、光の反射や、ガラス越しの空間は魅力的で、コンパクトなデジタルカメラは、私と世界を隔てるフェンスの距離を短くしてくれた。
     自身のイリュ−ジョンと共鳴したり、対話したり、対立したりすることで、私は精神のバランスを築こうとしているのかもしれない。
     けれども、私にはいつまでたっても自分自身を本当の意味では客観視することができない。以前は、そのことが不満だったけれども、今では何となくそれでいいと感じるようになって、それと同時に世界が限りないやさしさをもって、ただ、そこに在るということを実感するようになった。

     この10年、私はたくさんのものを失って過ごしてきたのは事実だけれど、同時にかけがえのないものを与えられもしたと思う。
     期間限定のIXY-DIGITALとの旅は、恋と無縁ではなかった日々を思い出させてくれて、何を見ても甘く切ないような甘美な時間を堪能することができた。

     雲を追いかけて走る私は、過ぎ去る幸福を追いかけているような錯覚に捉われて「ああ、幸福とは過ぎ去るものなのね」と雑踏で呟いていた。
     所有物がなくなるという意味で幸福は過ぎ去るのではなく、それは私たち個々の生きるパワ−によって作られてゆく−日常の雑事にも無償の喜びの感覚が加わるだけで、なんと世界は幸福に彩られることか・・・
     今朝、南のベランダでは朝顔が咲き出した。

    ( 2000.7.28 川村法子 )



  • 「 You Are Just Wonderful ! 」のこと

    10年ほど前から、どこへ行くにもカメラを携えるようになった。
    それ以前には、写真を撮るために、どこかへ出かけて行く程度だったと思う。それは、軽量でコンパクトな一眼レフカメラをプレゼントされたことから始まった旅のような時間だった。
    写真を撮りながらの日常は、絶えず流動する現実の時を封印しながら、細々と繰り返される生活に、ささやかな彩りを添えてくれるものと感じられていた。私は、写真を撮る喜びに満たされ続けていたし、写真そのものの出来不出来ということには鈍感であった。
    それよりは、写真を撮るために物をよく見るようになって、見ていたことを確めたくもあって、それは円環をなしていて出口は見あたらなかったけれども、私は不自由を感ずることもなく日常をやり過ごしていたように思う。

    この世のはかなさは、子どもの頃、毎夏を過ごした信州の日々が感じさせてくれたのだった。降るような星空の下で、マッチを磨ったとき、ほのかな赤みが膝頭を照らしていた。それは、記憶する必要もないほど凡庸な一瞬だった。なぜなのか解らないままに、子どもの私は懸命に念じていた−時を封印しようと試みていた。それは、夏の終りを告げる花火遊びのあとに、東京へ帰りたくない子どもが必死で試みた<まじない>であった。
    マッチを磨って、その炎をじっと見つめる。その一瞬を記憶して、いつでも思い出せるようにしておけば、夏が終っても、自由に魂が<この日・この時>に還ってこれる−そのための儀式であった。

    私は、大人になるまでに、これに似た数々の<まじない>の儀式をもって、時の封印に余念がなかった。

    それは、今も形を変えて続いているように思われるし、やはり人間の本質のようなものが、大人になったからといって易々と変りようもないのが本当らしい。

    死ぬのが恐くてたまらなかった臆病な子どもの私は、見ることによって、あるいは、記憶することによって永遠と親しい間柄になりたがっていた。そして、願えば願うほどに、それは彼方にあって私のものではありえなかった。私は、苦しみや悲しみと親しい間柄になり、いつの頃からか変転する時の流れに身をまかせるようにすらなったように思う。

    この10年、カメラを持ち写真を撮り続けてわかったことといえば・・・それは、「人生は一瞬である」ということだけのようだ。

    ( 2000.6.29 川村法子 )



  • シリ−ズ・「イマジネ−ティヴ パワ−」のこと -3-

     花を落とした桜並木の下を歩くとき、萌黄色をした若葉を風が渡り過ぎました。ときおり降る春雨に洗われての香しさを愉しんで、あてもなく歩いていました。

     世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせむ (西行法師)

     この春、久しぶりに東京で満開の桜を見ました。桜咲く頃は、何かと気忙しく、ゆっくりと花見に興じることがなかったのでした。桜は、ここ東京では、別れの季節に咲く花という思いがあります。
     都心の公園の芝生の上で、春の陽射しを受けながら桜を見ていました。鳩が餌をもとめて地面に群れをなし、若い人たちのグル−プが酒宴を繰り広げているさなかにあって、私を取り囲んでいたものは、静寂のように思いました。
     芝生の外は通路になっていて、その外側に生け垣があり、さらに外側にはブル−のテントが並んでいます。ブル−テントに住む人たちも酒宴を催していました。

     花の下における喧騒から離脱して、自然に流動的な状態に浸っていたのです。

     私は、信州のアルプスを思い浮べました。小さな村落の里山の裾野にある雑木林を渡る風の音や、小さくひらいた名を知らぬ花なども思い出しました。そこにいると身に沁みることがありました。そこに『ある』ものの美しさ、加えて『ある』もの、すべてに感じる『命』の大きさがそうでした。眺めているものすべてが、限りないやさしさをこめて、私を包んでくれるようでした。

     もしも、『ある』ものを見つめることによって、その『命』と同化していくことが出来るなら、『もの』に内包された美を、ある確かな手応えとともに白日のもとに呼び戻せるような気がします。自然がおしえてくれることは、秋の実りと、冬の死だけではなく、束の間の生命を懸命に生きることに尽きるように思われます。

     あとさきを永遠の中に呑みこまれているこの束の間のいのち (パスカル)

    ( 2000.5.26 川村法子 )



  • シリ−ズ・「イマジネ−ティヴ パワ−」のこと -2-

     ホストマザ−のジャッキ−は、肝臓がんで亡くなりました。55才でした。
     98年の春、体調を崩した彼女は肺炎を患い入院したのですが、退院後も職場に復帰できず、シアトルの郊外で一人暮らしをしていました。
     そのころ彼女は、裏庭を日本庭園を模して改造しました。その過程を写真と手紙で逐一私報告をしてきました。大きな庭石を河原から運んできたこと、つつじの苗木を植えようと考えている場所のことなどが緻密に語られていました。

     同夏、彼女は進行した肝臓がんであると診断を受けて摘出手術を受けました。その手術のあとの痛みがひどくてつらかったことなどを手紙で報されました。
     医者が告知した治癒率と、再発した場合の余命の期間などもカルテを読むように書かれていました。抗がん剤の副作用のこと、モルヒネカクテルのことなども仔細にわたっていました。9月末には、あと半年の命と医者に告知されるのですが、彼女は奇蹟を願い治療に専念し続けました。ときおり電話で話す彼女の声は常と変わらず意識もとてもクリアでした。

     私が「11月に写真展をするの」と伝えると、彼女は心のこもった祝福の言葉の後で「私そのとき日本へいくわ」と言いました。「術後間もないしまだ無理よ、来年もするから、そのときにしたほうがいいわよ」と制すると、彼女は即座に答えました。
     「だめよ。私には時間がないのよ、今しかないの」それは忘れられない瞬間でした。
     やがて医者の許可を得た彼女は、2週間の滞在予定で本当に日本へ着たのでした。

     その滞在中のことが、今パノラマのように記憶によみがえります。
     私は、99年2月に彼女の葬儀にも出席しましたが、どうしても彼女の肉体の消滅がその存在の消滅を意味すると思えないのです。思い出ということではなくて、別の意味で彼女の存在を感じるのです。
     これは、具体的な現象があらわれるわけでもなく、リアルなフルカラ−の夢のなかに彼女が出現するわけでもなく、科学的な根拠もなにもないことです。ただほんとうにそんな感じがするということなのです。そんな感じ−を言葉で説明するとしたら、なにかやわらかなあたたかな光に包まれている−愛というのはこういうことをいうのではないだろうか−だとしたら求めれば愛はいつもここにあるのではないか・・・というような曖昧で説明不可能な感情としか言うことができません。

     私は、末期がんの患者さんの話相手となり多くの人たちの臨終に立ち合ってきました。不思議な出来事にも遭遇しました。いずれも科学的な裏付けが困難な事象なので、因果律の言葉をもって伝えることができません。

     私の住まいのちいさなベランダには、はぜの鉢植えがあって新芽が育ちはじめています。チュウリップの球根も芽を伸ばし、傍らではオ−タムポエムが黄色い花を咲かせています。花桃の木は満開になり、野鳩のカップルがベランダにお花見に訪れることがあります。24時間リアルタイムで放送されるテレビの映像には、内戦や紛争によって殺害される人間の姿が頻繁にあらわれます。都心の公園へ足を向けるとホ−ムレスと呼ばれる人たちのブル−のテントがぎっしりと並んでいます。芝生とテントの間の道は小学生の通学路にもなっています。
     私たちの三次元の現実にも不思議なことは後を絶ちません。眼に見える現実世界の実態を正しく把握することさえも困難なことです。眼に見えない世界となると、解明するという形にはなりにくいだろうと思います。

     想像力の力を鍛えて、その力を駆使することが重要な21世紀への課題ではないかと私は考えています。

     東京では桜の咲く頃となりました。きびしい不況が続いていますが、どうか皆様のもとへなにがしの春のあたたかな萌しがあらわれますことを、私も祈っています。

    ( 2000.3.31 川村法子 )



  • シリ−ズ・「イマジネ−ティヴ パワ−」のこと -1-

     1998年11月に父を亡くし、翌年2月にホストマザ−を亡くしました。私は、「対象喪失」と向き合いながら、今を生き続けています。
     時は流れ2000年を迎えて、前向きに「始めの一歩」を踏み出します。大いなる「愛すべき対象」を失ってから1年余りの歳月を振り返るとき、私は「生きているかけがえのない自分」を再確認しています。それは広く周辺の人々にもおよび、「自分と同じかげがえのない生命と心をもった人々」の再確認へと繋がっていくのです。

     1999年11月の自分の誕生日に、私は山の温水プ−ルで遊んでいました。
     遠くの山にも、まだ積雪は少なく穏やかな晩秋の青空が広がっていました。空いていた屋外のジャグジに浸って、空を見上げていたときのことです。美しく紅葉した木々の狭間から虹見えました。うっすらと雲にかかる虹のはかなさに心を奪われていると、過ぎていった歳月の営みが静かに思い起こされました。
     劇的な出来事ばかりではなく、静かなる生の営みの記憶がよみがえり、胸に熱いものがこみあげるのでした。プ−ルを取り囲むようにして点在している樹木は、その残り少なくなった葉を、ときおり小刻みに揺るがしていました。
     声は、その狭間より聞こえてくるようでした。
     −−−もうずいぶんと長い時間を生きてきたような気がする。あっという間の人生だと感じてきたが、思えば本当に長い道程だった。それが終わってしまったわけではないが、十分働いたあとのような気持ちでいる。
     −−−もういいではないか、少し休むとしよう。それは、それなりに満ち足りた半生だった。この先、どれだけの時間があるかはわからない。しかし、それでいいではないか・・・

         それは、自我が自由をとりもどして、再び現実の世界への扉を開けた瞬間であったと思います。私は「愛する対象たち」の死の必然と和解を遂げました。
     「愛する対象たち」と二度と会うことはできないという苦痛は、生きている限り永遠に残るでしょう。その痛みを取り去ることは決してできないと教えてくれたのは、季節のめぐりであり、移ろいゆく自然の営みの間に見える「永遠」の気配でした。

         2000年1月には、冬枯れの信州で心を取り戻しました。
     悲しみや苦しみを共に生きる隣人に支えられながら、健全なる精神のもとに、
    −Imaginative Power -を駆使していこうと思います。

     不条理な社会的権威や、社会的偏見によって心の瞳を曇らせることなく、「かけがえのない多くのひとたち」と等しく「かけがえのない自分」を愛しながら探求の旅路を続けたいと考えます。

       2000年が皆様方に素晴らしい年になりますように、私も祈っています。

    ( 2000.1.31 川村法子 )


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