Noriko's Impression from DAIGA's World


「Discarded/捨てられしものたち」

今日、私たちは実に多くの廃棄物の写真を見ている。それは、産業廃棄物であったり、 一般廃棄物(いわゆる家庭ゴミ)であったり、海や河川に不法投棄されて漂流してい る家電製品だったりもする。東京近郊の道端や山中に、半ば骨董品化した日用品のゴ ミや、あっけらかんと置き去りにされた今やゴミ、かつての生活必需品などの写真も、 わたしの記憶に新しい。
ゴミは、その始まりからゴミであろうはずはない。何者かの必要性において誕生し、 何者かの必然性によって使用され続ける物体は、所有者が不要とみなす意志によって 投棄されゴミと認定される。ゴミと認定された物体は、すぐに物体の有様をゴミとい う様式に変化させるのではない。現実に実在の場所において存在を続ける物体は、ど こまでいっても物であり続けるのである。
ゴミを被写体として写し撮る写真家たちは、ゴミとの直接の交渉において世界との関 係を発見しようとする試みを行なっているのか、もしくは物との直接の交渉において それを望んでいるのか?
いずれにせよ、そこには世界との関係を新しく発見しようとする独自の感性と科学的 思考との必然性が誕生する。
そうした意味において、今回のダイガの3枚の写真は高く評価される。
彼は長野県の山中において、これらの物体と遭遇した。そして、その発見を単に廃棄 物との対面にとどめなかった。彼はおそらくその場において、新しい眼と意識を発見 するに到ったのである。そのとき彼を取り囲んでいた牧歌的な情景・日本の田園地帯 のかもしだすノスタルジックな雰囲気は想像に易い。彼は、そこから意識の現実逃避 を行なうのに止めず、その光景(現実)を、真っ新な「物」にまで解体して、彼の意 識の再構成を行い、目前の現実に新しい意味を発見するのに成功したのである。
持ち主の意志によって廃棄処分された自動車は、山中に不法廃棄されて植物に覆われ ている。田畑の脇に掘られた穴に投棄された布団(寝具)は、妙に生々しい。咲き乱 れる野の花のなかに、安物の長椅子が放置されている。「物」はどこまでいっても物 である。廃棄された自動車・布団・長椅子−それぞれを取り巻く牧歌的情景−そうい ったフォトジェニックな状況のもとで、あらためて光景を「物」に解体し、再構成を 行なうことは想像よりもはるかに難しい。
この地球上に在るかぎり「物」は人間によって造りだされた物であり、その必然性は 人間の意志に基づいている。人が必然によって造り、必要に応じて使用し、不必要と する必然によって廃棄される物・物・物、それらの、どこまでいっても物たちによっ て人の環境は劣化し続ける。しかし、それもまた人の必然性の意志に委ねられている。
「Discarded−捨てられしものたち」は、生命・地球・人類の直面している絶滅への ひとつの予告であるのかもしれない。いつの時代においても、すぐれた芸術家たちが 図らずも未来を予言していたように・・・。


1996.05.13(川村法子)
Copyright(C) Noriko KAWAMURA 1996


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