渡辺兼人「孤島」(銀座九美洞ギャラリー 1/31〜2/5)を見て

都市の日常において今日急速なペ−スで進められるあらゆるプロジェクトは、新しい景観を 生み出し、それは成功しているようにも見受けられます。東京のかたすみに生まれ暮らし続ける私にとっては、ここで起こる変化は、消失へと結びついてゆきます。
その消失にともなって訪れるのは、忘却です。「過去の記憶」を呼び覚ます景観が、つぎつぎに失われてゆくことに、言葉にならない痛みをおぼえます。記憶装置として写真を撮るわけではないのですが、結果として「失われた記憶」をとりもどすことになります。兼人氏の近年の作品にも、それに通じる景観と趣きが見られたように思います。

ツァイトでの展示に限っては、その作風・構成とともに、商品としての比重が高かったのではないかと考えています。例えが適切ではありませんが、著者とそれ以外のひとの手も加わって刊行された文学全集という印象でした。売るためのプロジェクトも巧みに行なわれており、そこそこに目的は果せるのではないかと思いました。

「半島」におきましては、兼人氏が脱皮してゆく直前の短い叫びのような印象をもちました。「かくある」ことを(ありつづけることから離れて)ほとんど無自覚のようにして、刻々と過去へと流れてゆく時間にあえて境界線をひいた瞬間であったかのようでした。

「孤島」の全体の印象は、「部分である」ということでした。都市の片隅において、もはや新しくも驚きもない路地裏を、なぜにかく撮るのか・・しかし、それはよく見るならば、「失われてゆく都市の景観」であり、「呼び戻せない過去」となるように思われました。
記憶をどこまでも正確に蘇らせようとすれば、その努力は空しいものとなりなにか清らかな、懐かしいような思い出までも失われてしまうようです。

「記憶装置」ではないと、兼人氏は言います。
銀座のギャラリ−でしたが、写真に価格が付けられていませんでした。
私には、それが兼人氏の「これは部分なんだ。まだすっかり出来上がったわけじゃない。部分は売るわけにはいかないんだ。」という主張のように思えてなりませんでした。
どのような世界においても、その世界のプロであり続けることはたいへんに努力のいることです。努力だけでは駄目だと言われますが、努力し続けるということを実践している大人は、それほど多くはありません。
ひとはエクスキュ−ズの誘惑に負けてしまうものです。

「かくある」ために「自分」が、どれだけの努力をしたのか時折自問自答して暮らしています。兼人氏の仕事は、まぎれもなくプロフェッショナルな仕事であったと思います。あたりまえのようですが、とても大切なことだと改めて考えさせられました。


2000.02.19(川村法子)
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